1.活動の背景と目的(平成22年度住まい・まちづくり担い手支援事業報告書から転載)

1-1 昭和村の概要と活動の背景

昭和村は、利根郡の最南端にあって赤城北麓に位置し、東は旧利根郡利根村(現沼田市)、北は旧白沢村(現沼田市)に接し、南は旧勢多郡赤城村(現渋川市)に隣接している。村域には川額・森下・橡久保・糸井・貝野瀬・生越の旧6村があった。かつて、旧沼田街道が旧宮城村永井から利根川左岸の川額・森下・橡久保を通り、片品川を渡り、沼須を経て沼田に達していた。明治22(1889)年、川額・森下・橡久保の3村が久呂保村、糸井・貝野瀬の2村が糸之瀬村となった。久呂保村は、昭和23(1948)年に赤城村(旧敷島村・永井地区)の一部を吸収合併している。昭和33(1958)年には久呂保村と糸之瀬村の両村が合併して昭和村となった。生越は、赤城根村から、昭和36(1961)年に昭和村に編入された。その後、赤城原(旧久呂保村の開拓地)が加えられて現在の昭和村の行政区となった。

地形は、赤城山の北西斜面を占め、標高は、南東部の1,466mが最も高く、南西部の利根川沿いが288mで最も低い。赤城山北西山麓部は、500〜800mで緩やかな斜面をなし、赤城高原を形成し、その間に放射状の浸食谷を刻んでいる。800m以上は国有林である。北部で550m、南西部で450m以下には、急崖で山麓面から隔てられた2〜5段の段丘面があり、江戸時代からの6集落は、その下段の段丘面上に発達している。北海道と見粉う広大な上段の段丘は、コンニャクや葉物野菜、果樹等の農地として活用されており、段丘上から眺める雄大な自然景観と相まって特筆できるものである。昭和村は、昭和50年代半ばまで主産業であった養蚕に変わる農作物として、こんにゃく、レタス、果実等に活路を見いだし、農業で自立している数少ない村である。農業に意欲的に取り組む農業者が多く、後継者も群馬県内の自治体随一で、高齢者(元気な高齢者)の就業率でも県内トップである(昭和村人口7,783名(住民基本台帳より)、そのうち3,366名が50歳以下、4,331名が50歳以上)。

 農業が産業として成果を上げていて、なおかつ、若い後継者が育っている環境の中で、大規模養蚕民家(約50%以上が建坪70坪以上である)が数多く残っている地域としても、県内唯一である。調査では、村内全域で、数百棟の歴史的建築物(主に養蚕民家・蚕室と土蔵)の残存が確認された。当村の大規模な養蚕民家とそれらがかたちづくる集落景観、さらに周辺を含めた農村景観は、全国的にみても特筆されて良いものと考えている。これは、昭和村の個性ある文化的景観であり、集落景観は地域資産として産業資産である農業と同じ価値を持つと言っても良い。しかし、この様な状況は、けっして楽観できるものではなく、1958年当時の糸之瀬村の調査からみるとその数は半数以下になっている。全国の古民家のある集落景観の趨勢を見るまでもなく、世代交代を期に次々と喪われていくであろう。

 都市化による景観破壊は、着実に進んでいる。今、意識をもって、景観保全(=地域づくり)に踏み出さないと、やがては地域固有の歴史と文化は失われ、コミュニティ喪失が現実となる。歴史的建築物である養蚕民家と集落景観は、私たちが歩んできた歴史と生活文化の証であり、次世代に継承する責務があると考えている。失われる前に保全に向けて動き出す必要がある。徐々にではあるが、行政も村の個性であり、地域づくりの資産でもある養蚕集落景観の重要性について気付き始めた。先年、外部からの視点で、農業や自然景観だけでなく、養蚕集落景観も含めて評価されて、「日本で最も美しい村」連合への加盟が許され、景観保全への弾みがついた。

図-1 群馬県全図(昭和村位置図) 図-2 昭和村全図
図-1 群馬県全図(昭和村位置図) 図-2 昭和村全図
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