■調査結果と今後の課題

 2003年度の調査では、伝統的な養蚕民家を約260棟確認している。建物規模は、建築面積40坪以上25%、延床面積50坪以上が65%であり、約80%の農家は、主屋の他養蚕小屋等が別棟として持っている。養蚕が盛んであった1958(昭和33)年当時の糸井・貝野瀬地区の調査(延床面積といわれている)※5との比較では、現在の棟数が約半分になっている。但し、規模構成は同様で、比較的大規模な養蚕民家が残っていて、最大は桁行き15間、梁行き7.5間の規模である。

表(『糸之瀬村誌』より作成)
坪 数 10下 10−20 21−30 31−40 41−50 51−60 61−70 70上 合 計
坪 数 22 73 70 61 37 33 41 129 466
割 合 5% 16% 15% 13% 8% 7% 9% 28%

 生越では、1953年度の報告※6に木造家屋(住居)の内、農家戸数69戸(内養蚕業55戸)、総坪数6,128.60とある。2階(蚕室)を含めた延べ面積か不明であるが、1戸平均約89坪である。の規模は、糸井・貝野瀬地区と同様に大規模であると考えられる。

 建物形態は、3地域とも同様であり、切妻(瓦及び金属板・旧板葺き)が約70%、残りが茅葺き(金属板覆い)である。茅葺き民家の殆どが妻兜で平側にアゲビサシ(突き上げ屋根・榛名型)付きで、これは、利根郡全域に見られる傾向である。建造年代は、幕末から明治期と考えられる。聞き取りでは、大正期と言われるものもあった。県内に残る養蚕集落と比較して、建物規模、残存率及び景観は県内でも有数である。

 切妻総二階の大規模な民家は、明治初期(聞き取りでは明治10年頃)から新しいものでは昭和45年(伝統的な間取りと工法で造られている)というものもあった。特徴的なのは屋根に取り付けられた気換櫓(天窓)で、奥行きが2間程ある大規模な総櫓である。利根郡には同様なものが見られるが、県内の他地域では見ることがない。蚕の飼育方法から工夫されたものと思われるが、確たる理由は見出せなかった。

 建物平面は、幕末から昭和40年代まで広間型(不整形四間取り)を踏襲しており、この型式は利根・片品地域に分布している。出入り口が土間玄関(トボグチ)の他に広間から直接表に出られる玄関(式台玄関ではない)があるのが特徴的である。間取りの時代的変遷は、広間型から整形四間取りに発展していくと言われているが、県内の間取りの地域分布や当村の状況からは、その様には言えないと思われる。

 2004年度の調査(川額、森下、橡久保、永井)では、土蔵等付属屋も含めて、約450棟の歴史的建造物を確認した。前回は主に養蚕農家の主屋を中心に調査しているので、主屋を集計すると、全村で400棟を超え、付属屋を含めると、歴史的建造物は7〜800棟近く残存していると考えられる。これほど膨大な数が調査によって発見できたのは驚きである。

 調査地域には、糸井・貝野瀬地域(旧糸之瀬村)と比べ大規模民家は少ないが、それでも殆どが建築面積50坪前後である。主屋の他土蔵・養蚕小屋等が別棟として持っているのは前回地域と同様である。

 茅葺き民家の形態は、糸井地区等(妻兜型民家でアゲビサシ(榛名型)が付いた形態)と同様であるが、赤城南麓に多く分布している寄せ棟・入母屋の赤城型民家が数棟混在している。切り妻総2階の形は、共通しているが、屋根の大規模な気換櫓(天窓)が設けられている民家は少ない。今回調査した範囲は永井地区を除いて、旧久呂保村である。『村誌久呂保(昭和36年)』には、民家についての資料等は詳しくなかった。

 昭和村指定文化財である生越の横井戸は集落共同体の絆であり、その調査も実施した。住民の力で1886(明治19)年から3年を掛け、大がかりな土木工事を行い、最長95m・入口縦経2mほどある巨大な横井戸を5本掘り、共同管理の下、集落給水を行っていた。現在も雑用水として使用している。横井戸の例として共同配水の例は、余り見あたらない。貴重な文化遺産であり、集落共同体のシンボルでもある。(別添資料参照Webページにリンク)

 調査の結果幾つかのことが今後の課題となった。一つは、調査資料を基に、昭和村の養蚕民家がかたち作る歴史景観が地域特有の文化であることを地域住民と共に考え、共通認識を持つ為の機会を設けること。その中で次世代にそれを継承していく方策を見出すこと。それはひとつの建物の再生や活用を考えることでなく、コミュニティのありかたを考えることでもある。また一方でこれからの農業と歴史景観を結びつけなければならない。

 もう一つは、昭和村を始めとする養蚕集落と農民の生活文化を規定した養蚕・製糸について掘り下げる必要がある。近代化を下支えしてきた養蚕が築きあげた文化を検証する事により、次世代に継承しなければならないものが見いだせると考える。養蚕・製糸は、産業として成り立たなくなったが、日本の文化として伝えていかなければならない。

 昭和村は、県内市町村の中で合併でなく自立を決めた数少ない町村の一つである。また、前述したが、農業が成り立っている数少ない村であり、後継者もある程度育っている。私たちの調査は、養蚕民家という歴史的建造物と村落景観を活かしたむらづくりを進める一歩であるとともに個性的な地域創造を目指す昭和村自立の側面支援であると考えている。

 当初計画の地域住民との定期的な勉強会は設立に至らなかったが、調査によってNPO法人清流の会(昭和村・理事長 今橋憲雄)、NPO法人 ネットワークしょうわ(昭和村・理事長 諸田郁夫)、昭和村商工会と連携して村造りを考えるきっかけ作りが出来た。村長以下役場担当者、村議会の理解も得られている。今後の課題として、今までの調査結果を精査することと、積み残した地域での勉強会を設け、コミュニティのありかたやその中での歴史的建造物の再生・活用、昭和村独自の景観保全等を学び考えなければならない。また、農業と歴史景観を結びつけていく事例に発展させたいと思う。将来の目標として重要伝統的建造物群保存地区への選定がある。これは、住民達自身が、村の景観に誇りを持った時に可能になると思っている。私たちの調査・活動が支援になることを願っている。

 現在群馬県では旧富岡製糸場の世界遺産登録を目指している。私たちは、昭和村を始めとする県内各地の養蚕集落と農民が製糸産業を支えていた事実を抜きに、世界遺産を考えることが出来ない。昭和村での動きを全県の養蚕集落へ波及させる努めも私たちに課された大きな課題である。


※5 糸乃瀬村誌編纂委員会編『糸之瀬村誌』1958 糸乃瀬村誌編纂委員会による。
※6 赤城根村誌編纂委員会編『わが赤城根村』1954 赤城根村誌編纂委員会による。