■調査の背景としての養蚕

 養蚕業は、広く深く日本の近代文化に影響を与えている。群馬をはじめ養蚕地帯にキリスト教が拡大したのも、横浜での生糸交易を抜きには語れない。明治政府がキリスト教の信仰を解禁したのは1873(明治6)年であった。翌年には新島襄が安中で布教を開始している。そして、キリスト教精神は群馬の養蚕・製糸業に多くの影響を与えている。※2

 1854年(安政元年)日本は開国し、その後、横浜港から大量の蚕種と生糸が輸出され、外国人貿易商と日本人の生糸商が横浜に軒を並べていた。当時の生糸輸出量は資料により大きく異なるが、1859年から1867年の間に毎年900〜1,800トンという膨大な量に達したとされる。その後1934年までの約75年間、日本の輸出品目の首位は生糸だった。日本の輸出総額に占める生糸の占める割合は、1931年:67%、1934年:42%と、今日の電気、自動車産業の比ではなかった。

 生糸の市場は、化学繊維の普及が要因となり、1958年を転換点にして急速に狭まり始め、併せて生活様式の変化で国内和服市場も衰退していった。また、中国をはじめとする人件費の安い国での養蚕業が台頭して日本生糸の国際競争力が失われ、養蚕業は急速に衰退し、2005年には、わずか625トンの収繭量※3になっている。県内の養蚕農家戸数は、養蚕業の衰退に伴い、1980年代前半には30,000戸程あったのが2007年には471戸※4となり、前年比でも約15%減少している。 そして、今では、県内に1ヶ所の製糸工場を残すだけとなった。

 すでに養蚕は産業として成立しているとは言い難い。近い将来、県内の養蚕農家は全てなくなる恐れもある。前橋市は「上毛かるた」に「県都まえばし糸のまち」と歌われ、製糸工場のれんが煙突から出る煙で景気を占ったといわれている。昭和44年の統計によると、前橋市内に製糸工場が大小合わせて98カ所、玉糸製糸工場が16カ所も有ったそうである。しかし、現在では、その痕跡は全て失われ、古いまちなみ景観も区画整理によって何処にでもある街に改変されてしまった。今では養蚕・製糸業によって形づくられた前橋の歴史を想起することは出来ない。

 今回の調査・研究の背景には、昭和村が前橋市の轍を踏むことがないようにという想いがこめられている。私たちには、養蚕を生きた産業・文化として、また、かつての時代の息吹を残す養蚕民家や歴史的景観を私たち自身の歴史として、正確な形で次世代に継承する責務があると考えているからである。


※2 新島学園女子短期大学新島文化研究所編『安中教会史−創立から100年まで』及び「上州路 59 特集近代群馬養蚕業の黎明」参照
※3 『群馬の養蚕(みやま文庫86)に、群馬県の繭生産量は、1930(昭和5)年で25,329トン、昭和14年には30,093トン(群馬県における最高収繭量)と記載されている。別な資料では、昭和14年の養蚕農家戸数は80,500戸とある。群馬県資料 平成19年度版「群馬の農業」では2005年の県内生産量は278トンで全国生産量の45%を占めている。
※4 群馬県蚕糸園芸課蚕糸係資料。