群馬は、全国有数の養蚕県である。養蚕は、幕末から明治に掛けて日本の近代化の一翼を担った。単に富国強兵のための外価獲得だけでなく、養蚕はキリスト教を始めとして様々な西欧文化を取り入れる原動力ともなった。
群馬の近代化というと、多くの人は官営富岡製糸場、碓氷線のレンガ橋(眼鏡橋)やその他官製の近代化遺産を取り上げる。一方、近代化を実質的に支えてきた農民や養蚕民家が取り上げられることは稀であり、それが近代化に果たした役割に言及されることはない。※1
養蚕民家はその時代、時期に応じた農民の生活文化の発露として生まれたものである。その形態は一様ではなく、地域によって様々な形態と特性を持つ。このように農民の生活文化が日本の近代化を支えたと言っても決して過言では無い。
昭和村には、県内でも有数の茅葺きの大型養蚕民家と元は板葺きと思われる大型で総2階の養蚕民家が混在した集落が、自然環境と共に貴重な歴史景観を残している。県内69(現38)市町村の中で、昭和村は農業が成り立っている数少ない村である。農業後継者もある程度育っている。比較的昔ながらのコミュニティが残っており、地域の纏まりも強い。住まいでもあるかつての養蚕民家に対する思いも肯定的で、建物に対する評価も低くはない。しかし、今は養蚕も過去のものとなり、残されたそれらの養蚕民家も役目を終え朽ち果てようとしている。現在の建物がこのまま使われていくかは、世代交代時の判断にかかっている。楽観は出来ない。
私たちは、昭和村の歴史景観を失うことは、私たちが先人たちから連綿として受け継いできた歴史の証を失うことであると考えている。昭和村の現存する養蚕民家の形態や特徴の持つ意味、それを生み出した農民の生活文化の有り様、近代化を下支えした地域文化を明らかにすることにより、歴史景観を次世代に継承するための方策が見えてくると思われる。そこで、はじめの一歩として、調査研究を開始した。